古代(キリスト教成立以降)


 キリスト教が広まる直前のヨーロッパでは、社会制度そのものはすでに父権制になっており、女性の地位も権利もその支配下に置かれていたが、少なくとも信仰の上では、まだまだ母なる女神達の力は残っていた。

 ローア帝国は度重なる戦争で領土や領民を獲得するとともに、そこに伝わる宗教までも自らの手中に収めていった。しかも、権力者によって認められた宗教は、そのまま権力者にとって都合のよい宗教となる運命をたどり始める。

 この時期はキリスト教にとっても苦難の時代で、なぜならキリスト教は元々はローマ帝国に対する反抗の象徴を担っていたからだ。キリスト教がユダヤ教を母胎として成立したことは周知の事実だが、そのユダヤ教の聖典である旧約聖書に表記されている律法はまさしく家父長制度そのものだ。この律法はユダヤ一民族のために作られたものだったが、キリストと彼の使途たちはこれをさらに民族を超越した、魂の救済概念として広めていく。一方、ローマによって支配されるようになった人々の在来の神は、権力者(ローマ人)の手によってすでに自分達の神ではなう、権力者の神にさせられ、ローマ人を守る役目を負うようになっている。

 そんな中で、ローマ人の支配領で十字架にかけられたキリストの姿と、ローマの権力者によって迫害されながらもすべての人の魂の救済を訴える使途にひかれていった被支配層の人々はかなりの数に登っただろう。従って、ローマ帝国に布教されはじめた初期のキリスト教はもっぱら貧しい者、ローマに迫害を受けた者たちを中心に信者の数を増やしていく。

 ところで、ローマ人の間でこの時期にもっとも勢いを伸ばした家父長的な宗教はミトラス教だった。このミトラス教はインドやイランを起源とする非常に密犠牲の強い宗教だった。主神ミトラスは牛を屠る神として、海賊の手によってローマにもたらされ、その戦闘的性格から兵士の間で特に信仰が厚かった。

 このミトラス教の入信儀式は、19世紀に流行するイギリスの神秘主義的な秘密結社の入信儀式と非常によく似ているまず、赤い縁取りのついた白い衣装の導師に目隠しをされた全裸の入信者の両肩を押して別の場所へと連れて行く。そこで入信者は両手を後ろに縛られ、導師の前にひざまずく。神官が彼の背後に剣または棍棒を持って立つ。入信者の試練はさらに、祭祀によって新しい生命のしるしを与えられ、祝福を受けるまで続けられる。

 この入信の儀式はミトラス神殿の遺跡内に描かれた断片的な図面として残っているわけだが、ミトラス神を中心とする宇宙の創生劇や、それを象徴する七大惑星の図を神殿の門にしつらえたり、試練の儀式の中にそれらの象徴をちりばめ、さらに地、水、火、大気をそれぞれ象徴化させて儀式化させる方法は、特に近代イギリスのオカルト的秘密結社である「黄金の夜明け」団に影響を与えているように思われる。

 しかし、逆説的に言えば、近代の秘密結社に影響を与えたもっとも大きな要因は、とりもなおさずミトラス教がキリスト教に敗北したことにあったと言えるだろう。貧しい人々を中心にローマの権力者とすでに彼らの神々となりはてた各民族の宗教をいてに戦い続けたキリスト教徒は、しだいに権力の側へも影響力を持ち始めた。

 313年、ミラノの勅令によってついにキリスト教会は、宗教としての容認を受けることになる。この時から、キリスト教の敵はローマ帝国ではなくローマの貴族たちや兵士たちに巣食う「異教」となったのだった。ところがまもなく、異教徒はローマ帝国の内側のみならず、外側からもやってくることが明らかになる。その第一弾は民族大移動によってローマ領内に侵入してきたゲルマン民族であった。ゲルマンの侵入以前には、ローマ帝国の支配者たちが何度か異教の復興を試みている。しかし侵入後に出された施策は、380念のキリスト教信仰令の発布であり、392年のテオドシウス一世による異教禁止令だ。

 この頃になると、ローマ帝国の政治的支配力はほとんど形の上だけとなってくる。一方でキリスト教はますます支配力を強めていった。395年にローマ帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国はそれから100年もたたないうちに崩壊するが、キリスト教はローマ教会を拠点とし、カトリックを正統派として、ゲルマン族長クラスを次々に改宗させることに成功する。

 異教徒最後のあがきにも見えたゲルマン民族のローマ侵攻は、結局のところゲルマンの人々をローマ化させるのみで、異教復活の糸口すらもなくなる結果となる。しかし都市部にほいてはキリスト教支配が決定されたとしても、この時期の農村部においてはいまだ偉大なる女神と角の王の結婚が祝祭の形で残っていた。やがてキリスト教がゆっくりと農村部へも入り込んでくるようになると(それはローマ化した族長たちが農民たちを奴農化していく過程でもある)、農民たちは彼らの女神をマリア像と同一化させていく。

 こうして、637年にイスラム教徒たちがキリスト教徒たちの聖地エルサレムを陥落させるその日までは、ヨーロッパの農村部においては、古い神々とキリスト教は対立構造よりも穏やかな共存関係を保っていた。

 この時代、つまり古い神々を信じていたゲルマンの人々がローマ化し、キリスト教徒になっていった時代、彼らの英雄がどのような姿であったかをもっとも象徴的に表現しているのは、おそらくアーサー王伝説であろう。この伝説の中では、すでに女は偉大なる母でもなければ女神ですらありえない。おそらく母権時代のなごりを見せていたギリシャやローマの女神たちは当時の女の実情にかなり近いものへと格下げされていったのではなかろうか。大地母神は必ずしも豊かな実りや生命の誕生を約束してくれる存在だけではなく、気まぐれで頑固で、時にはヒステリックに子供や夫(地上の生物)にあたり散らす神だったのではなかろうか。しかし父権制社会が進み、父権的な宗教が勢いを増すと、この女が女のままに自由であれば尊敬されるという時代ではなくなるようになる。

 女神達に求められるのは、男が母に対して求める理想的な美しさである、誇り高さや貞潔だ。次に彼女たちは誰かの娘であり、妹であり、妻であることを義務づけられる。アーサー王伝説の中では、かつての女神と同等の位置にいたであろう女たちは、もはやその美しさと誇り高さと貞潔さによってのみ価値を有するような装飾物となって描かれているにすぎない。その代わりに前面に出てくるのは恋愛感情だ。アーサー王物語の後半で語られる、王妃グィネヴィアとランスロットのロマンスは物語を悲劇へと招く主要な鍵となる。

 おそらく、この物語全体を通じて、もっとも古代の女神を連想させる登場人物は、アーサーの異父姉であるモーガン・ル・フェイだろう。モガンに関する記述はどれもが複雑で矛盾に満ちている。15世紀イギリスのトーマス・マロリーの『アーサー王の死』では、モーガンは尼僧の学校に生かされたとあるが、物語のいくつかのエピソードでは魔法を使い、アーサーや円卓の騎士を落としいれようとする。しかし、ついにアーサーが倒れると、彼を永遠の島アヴァロンへと連れ去る重要な役目を持って登場する。

イギリスの現代作家であり、オカルトや神話学の研究書をいくつも書いたリチャード・キャベンディッシュは『アーサー王伝説』で「モーガン・ル・フェイは女性としてのマーリンのうつしであり、また対極にあたる」と書いている。マーリンはアーサー王の助言者として、魔法の力を使ってアーサー王を助ける人物だが、現代の魔女たちの多くは彼をケルトの僧侶であったドルイドと考え、またモーガンをドルイドの巫女(魔女)たちのリーダーであったと考えている。

 アーサー王と騎士たちが神となり、彼らの物語が神話であることができた古代の多神教の時代であれば、モーガン・ル・フェイはまぎれもなく女神として描かれただろう。しかしアーサー王物語が集大成された15世紀は、残念ながら神は一人であり、しかもその物語を書き記した人物はキリスト教徒だった。彼の倫理からすれば騎士は王のために戦う使徒であり、女は聖母マリアでなければならず、古い時代の宗教にはすみやかに退去してもらわねばならない理屈があった。

 しかしアーサー王の最期には、キリストの死と復活にはない要素が加えられている。そして、それはどこまでもモーガンの存在に関する矛盾となってくる。民族性を超越できたはずのキリスト教にとって、ついに把握することができなかった最期の砦は、おそらくこのモーガンに代表されるような古い時代の女神の中にひそむ女の自然性だったのかもしれない。