人の心に入る術(五欲の理)


 この術は、食(飲食欲)、性(性欲)、名(名誉・権威欲)、財(金銭・物欲)、風流(趣味・賭博欲)の五術に分かれている。元来この五欲は生命の維持に必要な欲望で、食、性は本能に基づくものであり、他の三欲は後天的なものであるが、食、性同様に非常に強烈なものである。ある意味では、この五欲は五情の根にあるものであり、五欲を提示する事によって、五情は簡単にこれを動かす事ができる。が、この欲望は感情を爆発させる作用はあるが、直接そのものが急発することはない。いわば、じりじりとこげる埋れ火的作用を持っている。感情の動きの一時的なのに比して、永く永続的なのが特徴でる。忍者はこの特徴を知って、これを人に接近する目的、人を操縦する目的、人の心を捉える目的に使った。人の心に入るという術の名称は、そういう意味を表すものである。



飲食の欲をついて人の心に入る術


 「食い物の恨みは恐ろしい」と戯れに言うが、飲食欲は元々本能の一つであるから馬鹿にならない。「お近づきの印に、ちょっと一杯」とか、「私の知り合いに、フグ料理の専門店が」などという類はみなこの術の範囲に入る。特に酒の方は人の心に入る絶好の手段である。一緒に飯を喰うことがすでに親しみを倍化する良策であるが、これに酒が伴うと、親しみに加速度が加わる。酒が入るほど外装jかなぐり捨てられ、動物的になる。人間同士が親しくなるにはお互いの動物性を露呈しあう事が一番の近道である。酒のみ仲間の仁義は固いというが、それはお互いが体裁をかなぐり捨てて「こいつも深く付き合えば俺と同程度だ」という一種の安心感を与え、かつ看取るからであって、その根底にあるものは同類意識なのだ。この飲食の効用、それを忍者が使わぬはずがない。中でも特に酒を使った。


色欲をついて人の心に入る術


 色欲は人間の大本能の一つであり、そのために身を滅ぼした人間は史上枚挙にいとまがない。この術は久ノ一の術と内容的にほとんど変わらない術であるが、久ノ一の術は、それが更に細部にわたり専門家しているのが違う点で、忍術ではそれぞれ独立した術として扱っている。田沼時代はワイロが横行して、もらう方が馴れてしまったので、「これは特別な京人形だが一人きりの時にあけて欲しい」とのたまい、京人形と称して京人形仕立ての美女を送りつけて同じ手法が一気に広まったという事例が残っている。



栄誉の欲を用いて人の心に入る術


 名の欲は、名誉心、功名心、事業欲、出世欲、虚栄心等をその内容として持っている。いずれも根本的には自分の存在を外に向かって誇示したいという欲望であって、どんな人間でもこの欲を心奥に秘めていない者はない。これも結構、人の心に入る手段に使える。



財欲をついて人の心に入る術


 金銭欲、物欲は元々人間の生存欲につながるものである。それだけにこの欲も熾烈で根深い。けちな人というのは、この欲望が病的に発達している人であるが、こういう人はこの手にかかると、ころりと参ること妙である。財(金銭、財物)を好む人に往々、変質者的傾向があることはこの欲望が常時執念化しやすい事を物語るものである。



風流の欲をついて人の心に入る術


 人には必ず趣味がある。この趣味というものは大変間口が広くて、琴、尺八、三味線、小唄、長歌、盆栽いじり、花作り、俳句、短歌、盆景、書画、骨董、刀剣いじりなど数え上げれば切りがない。大抵の人は、大海のような趣味の中から一つ二つを選んで、それを自らの趣味とし、その中に生きがいを見出している。今は昔よりも趣味の世界はうんと厚く広くなっているが、昔でも趣味の世界は相当に広かったのである。北条高時が田楽を好んで、一年中田楽法師を傍らから離さなかったことなど、その著しい例である。

 博打もまた趣味の中に入る。碁、将棋、麻雀、競艇、競輪、競馬、角力、カブ、チョボにいたるまで賭けの数も非常に多いが、どの賭けも多数のファンを持っている。勝負事は酒に似て、人間性を素っ裸に見せ合うから、強い同類意識を関係者の間に作り出す。人間は本来孤独なのだが、孤独に徹しきれない本能的な集団欲が、同類をmとオメル行為になって現れる。

 この趣味が忍者の人間攻略の最後の切り札なのだ。「酒で落ちない人間は色で落とせ。色がだめなら金をぶつけろ。それでもダメなら出世のツルで誘惑せよ、それでも不落なら博打に誘え、博打を嫌がる人間には趣味で近付け」と昔の忍者は教えている。この五欲の術のことごとくを施して、なおかつ親しく近寄れない人間は聖人であるから敬して遠ざけよと忍者は教えている。そんな人間は百万人に一人か二人であるが、こういう人間を相手にすると忍者の方が損をする。この術を用いる時は、忍者は相手と同じ趣味を一定期間勉強して、相手と同じかそれ以上の趣味力を備えねばならない。忍者は多芸多能にならざるを得なかったのである。