戦前布告、遠入りの術
遠入りの術とは、まだ戦争状態にならないうちに、敵中に忍者を入れ、諜謀を相手にしかける技術をいう。遠入りの遠は、遠く敵と対峙しているの意味で、仮想敵を指している。忍者仲間では、この遠入りの術の巧みな者ほど巧忍者と目された。なぜなら平和時においてすでに敵中にスパイ網を敷いている忍者は戦争が起こってもあわてる必要はない。第一スパイ網を敵中に配置する仕事は、戦争中よりも戦前に行ったほうが遥かに安全であり、その効果も大きいのである。
桂男の術
月の中に桂男という男が住んでいるというのは古い中国の伝説である。ここでは敵内の忍者を桂男と呼ぶ。つまり平時から敵中に忍者を置く術ということになる。忍者を送る手段は基本的には仏隠れの術によるが、この術では特別な方法を指示し、同時に送り込んで後の連絡法まで指定している。
桂男に蟄虫を用いる法
敵中に忍者を入れる。一口に言えば簡単だが、その桂男の人選、決定は大変な仕事だ。桂男は敵中に住む訳だから、味方の者に見方だと分かっている者にはその資格がない。なんとなれば、味方の中で顔を知られた者は敵に顔を知られたも同然だからである。味方の中には必ず敵の忍者の一人や二人は入っているに決まっているからだ。そこで、味方の者も顔を見たことのない(小数の幹部だけが知っている)人間を使うより外に良い方法は無いわけだ。
味方も知らない味方。そういう人間はどうしたら求められるか。その為には、忍将は平常から広く天下に眼を配って、桂男の人材(才幹ある者、一芸ある者、美貌の子を持つ者で、現在浪人して困っている者がその候補者である)を探し、適当な者があれば密かに人を派遣して、これを召抱える。そして召抱えた事は味方にも固く秘して、その者を敵国内または他国(なるべく城下に住まわせる)に住まわせ、表面、清貧を装わせて生活させておくのである。こういう者を蟄虫(隠れた忍者)と呼ぶのであるが、桂男はこの蟄虫から選出するのが常法である。
忍将は、この桂男の候補者である蟄虫のストックを、敵国内は勿論のこと、近辺の国々のうちに相当数持っていなければならない。その蟄虫の中で、ふだんから敵国に住んで、その国人を装っている者は「穴丑」とも呼ばれていた。穴丑は、桂男を入れる場合の第一根拠地で、桂男が仕官をする時には「身元保証人」の役割を受け持たねばならない。計男が入り込んで後は、穴丑は桂男の相談人となり桂男の第一情報連絡所の役目を受け持つわけである。
昔は、美貌の子女を持つ親を、密かに子供ぐるみ召抱えておいて敵国に住まわせ、五年十年後に、その子女の容色の美を種にして、敵の城に奉公させ、桂男を働かせると同時に、親が穴丑としてその子と監督者となり、その家を情報連絡の基地とする例が多かったようである。
相談人を通路に置く法
せっかく骨を折って敵中に穴丑(根拠地)をいれ、桂男(敵中忍)を置いても、肝心の本部との連絡機構を巧く作らなければ意味がない。そこで相談人と称する連絡係を最低限二人は置くことになる。相談人は、第一の相談人、第二の相談人の二種に分けられる。
第一の相談人は、本部と第二の相談人との間を往復する伝令の役割を果たす。桂男の情報を本部に送ること、逆に桂男に本部の命令を伝えること、この二つが第一の相談人の仕事である。これ以外にも、第二の相談人と桂男の監視をする役目も勿論負っている。
第二の相談人は、第一の相談人に、桂男から受けた情報を報告し、その命令を桂男に伝える役目を負うが、それ以外に、桂男の監視、監督の任務をも果たさなければならない。この第二の相談人は桂男と共に敵国に定着する者でなければならないから、穴丑がその役割を担当するのが普通であった。穴丑に入れたものを桂男に使った場合(敵に仕官させたとき)は、穴丑の妻または家人を穴丑とし、それを第二の相談人とするのが定石である。単身の穴丑を桂男に入れた場合にのみ、新たに穴丑を設けて、第二の相談人の役目を負わせる。
第一の相談人は複数、それも出来るだけ多く置いたほうがよい。月に一回往来するとしても、同一人が年に12回も穴丑の家を訪問しては人目をひく恐れがある。4,5人置いて、Aは薬売り(年三回)、Bは虚無僧(年三回)、Cは山伏(年三回)、Dは万歳(年一回)、Eは雲水(年二回)という風に、いろいろ品を変えて数人が交互に訪れたほうが安全である。
人質を取る法
桂男及び穴丑は敵中に入って長く生活する者だから、敵になじみやすく、従って反間となる危険性もなしとはしない。それを予防するためには、桂男、穴丑の人選に当たってはその人が義理に厚いかどうかという点を充分吟味しなければならない。次には、それ等の者に手厚く給与し、利害の離れることのないように気を配ること、第三には、彼らの血縁者を仕官(契約)と同時に自国に移住させ、万一「反間」となった時は、その血縁者の生命はなくなっても止むを得ない旨を誓約させ、血縁者を厚遇して桂男、穴丑が人情、恩義の両面から絶対背き得ない形をとるべきである。以上のことが、桂男の術の内容である。
如影の術
前述の桂男の術は、まだ戦争の気もないときに、スパイを敵中に送る方法であるが、この如影の術は、その直前、戦雲が両国間にたれこめて、物情騒然となった時、敵の戦力中に相当数の忍者を潜入させる方法である。戦雲急を告げる時は、自軍の戦力を高めるため、一芸一能ある者は争ってこれを求めるのが人情であるから、力量、能力のある者は忍者の疑いさえなければ、大抵の場合、容易に仕官する事ができる。如影の術は、この急迫時に現れる敵の虚をついて、多数の忍者を敵中に投入する秘術である。
この場合、桂男として用いる蟄虫、通報根拠地(穴丑)の設定、連絡法などは桂男の術によって行うのである。ただこの術を用いるときは「仮子仮女の法」によって桂男たる人に偽りの妻子を造り与え、偽家族を伴って敵国に入らしめる事が往々行われた。これは敵に人質を示して安心させ、仕官を容易にする策略である。