バジリスク Basilisk

 バジリスクは古代ギリシャ・ローマ時代から中世ヨーロッパに至るまでの長い間、ずっと恐れられていた。その間に姿、性格はずいぶん変化しているが、毒をもつという特徴は変わらなかった。


○ギリシャ・ローマのバジリスク

 古代ローマの博物学者(1)プリニウスの(2)『博物誌』にはギリシャ・ローマで信じられていたバジリスクの詳しい記載がある。それによると、バジリスクはリビア東部のキレナイカ地方の砂漠に棲む猛毒を持った毒蛇で、その名前はギリシャ語で「小さな王」を意味する。砂漠の生物は全てバジリスクに治められていると考えられ、バジリスクの頭の後ろには(3)王冠のような白い模様が輝いており、王位を表しているように見えた。毒蛇たちはバジリスクを見るとお辞儀をするように深く頭をさげてその前を横切った。
 バジリスクは全長24cmくらいであまり大きくは無いが吐き出す息はとても強力で、その毒の息に触れると樹や草は枯れ、岩はわれ動物は死んでしまうので、バジリスクの巣穴の近くは(4)荒地となっていた。神話によると、ペルセウスがメデューサの首を持ってリビアの砂漠を通りかかった時、首の傷口から血がしたたり落ち、バジリスクが生まれたとしている。かつてのギリシャ・ローマではアフリカ砂漠の毒蛇や怪物はみあメデューサから産まれ、そしてメデューサの能力を最も色濃く受けたのがバジリスクとされる。
 伝承では、ナイル川に飛来して毒蛇を食べるトキの体内に毒蛇の毒がたまって卵を汚染し、その卵からバジリスクが生まれるとされた。そのためナイル河畔の人々はトキの卵を見つけるたびにつぶしていたが、それは毒蛇を食べる益鳥の数を減らすことになった。リビアではイタチがバジリスクの天敵と言われており、イタチの最後っ屁と呼ばれるようにイタチは強い匂いに慣れており、バジリスクの毒に耐性があるとされた。リビアではバジリスクの巣穴を見つけるとイタチを放りこんで退治した。


○中世ヨーロッパのバジリスク

 中世になると、王冠をかぶり、水かきのある小さな足が8本(あるいは6本)生えた小型のドラゴン(トカゲ)とされた。その毒も息ではなく、視線に毒を含み、見たものを石に変えるとされた。バジリスクを退治するのもイタチでなく、視線を跳ね返す鏡に変わる。このバジリスクが(5)アレキサンダー大王に退治される話がある。ただ見るだけで災いを与える能力を邪眼といい、邪視を持つ人は本人の意思とは別に人や家畜に被害を与えるとされ、嫌われた。インドでは王や高い地位にある聖職者が、エチオピアでは身分の低い者が、中近東では誰もが邪視を持っているとされる。これは古代信仰の呪術の変形で、呪いは妬みから発するとされた。
 特に蛇の目には強い邪視があるとされ、暗闇で光まばたきもしない事、また蛇ににらまれた動物が動けなくなる事からそう考えられた。アレクサンダーは部下の盾に鏡を取り付けバジリスクを取り囲み、石にして倒したとされる。バジリスクの毒は時代と共に誇張され、全身から毒を発し、その姿を見ただけで石になるとされた。キリスト教会ではバジリスクを死の象徴として捉え、絵画や彫刻になった。本来、猛毒の毒蛇であったバジリスクは、中世ヨーロッパでこのように姿を変え、ついにはバジリコックという怪物になる。


 (1)プリニウス

 Gaivs Plinius Secundos(23〜79)。古代ローマの軍人、政治家。

 (2)『博物誌』

 全37巻の一種の百科事典。虚実入り混じるが、自然研究の手引き。

 (3)王冠模様

 場所を考えると、エジプトコブラを指していると思われる。

 (4)荒地

 最初からバジリスクはそういう所を選んで棲んでいたわけだが、上記のような解釈で毒となった。

 (5)アレクサンダー

 Alexander(紀元前356〜323)。マケドニア生まれ、20歳で即位。