ケツァルコアトル auetzalcoatl

 中米では紀元前10世紀頃からアステカ族による文明が始まり、スペイン人に滅ぼされた1521年まで発展し続けた。この頃のアステカ族は、主にネコ科の動物(特に(1)ジャガー)が崇拝されていたが、紀元前1〜紀元前3世紀頃になると、しだいにある種の蛇が最高神と考えられるようになる。これこそが「翼を持った蛇」と呼ばれるケツァルコアトルである。


○アステカ族のケツァルコアトル

 ケツァルコアトルは神々の中で最も強い勢力を持つ全能の神とされる。その姿は、王の権威を象徴するケツァール(霊鳥の緑色の羽毛)を持った蛇、または緑色の羽毛の翼を持った蛇というように描かれる事が多かったが、単純に縦の線が長い十文字の記号だけで表されることもあった。またときには白い肌、黒い髪に長い髭をたくわえた、りりしい人間の王の姿となって現れるともされた。

 ケツァルコアトルは戦いを嫌い、たとえ他の神々が反対しても人間に味方する心やさしい神とされる。彼は人間の創造主で、人間に文化を与え、トウモロコシの栽培方法を教えてそれを主食とさせ、火の起こし方や酒の造り方、神々への崇拝の儀式の仕方などを教えた。もし彼がこれらの事を教えなければ人間は飢えや寒さをしのぐこともできず、神々の怒りに触れて滅び去っただろうと言われている。

 また、ヒスイの宝石の発掘と工作、織物の技術、時間の算定方法、星の運行、暦の作り方などの生活技術から、断食や節度ある生活、他者に対する愛情、過ちの訂正などといった豊かな精神活動に至るまで、ケツァルコアトルはこと細かに人間に教えていった。

 ケツァルコアトルは生命をもたらす金星の神でもあった。金星は夜の闇とともに地平線に姿を消し、次の朝再び東の空に輝く為、死からの復活を表しているとされた。これが死から蘇ると伝えられる蛇と結びつき、ケツァルコアトルを示す星だと考えられていた。

 このような、人間に恵みを与えてくれるケツァルコアトルの崇拝は長く続いた他の神々は、捧げ物に人の命や血を求めたが、ケツァルコアトルが求めたのは霊鳥の羽毛と蛇、そして蝶だけだった。ケツァルコアトルは他に「エエカオル(風の神)」、「トラウィスカルパンテク(金星の神)」、「セ・アカトル(夜明けの神)」、「ショロトル(双子の神)」などと呼ばれていた。しかしこれらは儀式や伝承に使われる名前で、一般的にはケツァルコアトルで通っていた。



○ケツァルコアトルの世界創造

 現在の世界が創造される前に、世界は三度作られていた。創造を受け持っていたのは、神々の中でも特に有力だったケツァルコアトルと、戦いの神(2)テスカトリポカ(煤けた鏡)だった。テスカトリポカの造った世界は野蛮で粗暴だったためすぐに滅び、またケツァルコアトルが二度作った世界は(3)テスカトリポカの妨害で破壊された。

 四度目の世界はケツァルコアトルが作ったものだが、あるとき突然空が落下しそうになり、滅亡の危機に陥った。天が落ちてしまえば二度と元に戻すことはできないので、その時ばかりはテスカトリポカも世界を守る事に協力し、二人で天と地に(4)大きな木を生やして、天を支えた。それからは2人は手を結び、ともに天の王座について世界を見守る事になった。これが我々が現在住んでいる世界とされる。

 しかし、世界は完成したものの、神々のための儀式を行う生物がいない。そこでケツァルコアトルは新しい生物を作るために、たった一人で(5)地下の冥府へ降りていき、死者の国の支配者のもとを訪れた。そして生命を作るために、宝石と化したかつての生物の骨を分けてくれるよう頼んだ。しかし、死者の王(6)ミクトランテクゥトリは宝石の骨をケツァルコアトルに渡す事をしぶり、(7)地獄の犬をけしかけた。ケツァルコアトルはなんとかその場を切り抜け、宝石の骨を天上に持ち帰ったが、それは犬の牙によって粉々に噛み砕かれていた。壊れた宝石の骨では命を造ることができない。

 そこで、ケツァルコアトルは自分の手足(または生殖器)から血を採り、それを砕けた骨の上に注ぎかけた。すると神の血を吸った宝石の骨は、見る見るうちに人間の姿に変わっていった。それを見ていた他の神々も皆同じように人間を作ったので、たくさんの人間が地上で暮らすようになった。


○ケツァルコアトルの追放

 平和を愛する文明の神ケツァルコアトルは、アステカの貴族や神官、農民から崇拝されていた。しかしアステカ族が次第に勢力を増して他の部族との戦争が繰り返されるようになると、軍人の地位が向上し、彼らの崇拝する戦いの神テスカトリポカが力をつけてきた。そしてテスカトリポカは、アステカ族の崇拝を独占しようとして、ケツァルコアトル追放の陰謀を企てた。

 まず、テスカトリポカはケツァルコアトルを酒宴に招いた。そしてケツァルコアトルはテスカトリポカから(8)キノコから造った幻覚剤の入ったトウモロコシ酒を勧められ、それを飲んでしまう。正気を失ったケツァルコアトルは、テスカトリポカが与える美しい娼婦達と淫らな日々をすごし、神としてのつつしみを忘れてしまった。やがて正気を取り戻したケツァルコアトルは、自分が不浄なものに汚されてしまったことに気づく。神であることを忘れ、堕落した時間をすごしたケツァルコアトルからは神の力が失われていた。

 テスカトリポカはその時を逃がさず、ケツァルコアトルに、はるか西方のだれも知らない場所(9)トリラン・トラパラン「黒と赤の国」へ追放を命ずる。ケツァルコアトルは、セ・アカトル「(10)葦の一の年」に再び戻ってくると予言して、はるか西へと立ち去った。以来、文化と平和の神を失ったアステカの国国は、テスカトリポカの望みどおりに、戦争だけが繰り返される国となった。


○マヤのケツァルコアトル

 ケツァルコアトル崇拝は、アステカ族の発展とともに、中南米に広く伝わっていく。とくにメキシコ半島南部のマヤ族に伝わったケツァルコアトルは、ククルカン(またはグクマッツ。「羽毛のある蛇」)と呼ばれ、崇拝された。けれど最高神として崇拝されたのではなく、かつて力のあった神々の一人として、敬愛される程度だった。

 ククルカンへの崇拝は、シュルと呼ばれる月にククルカンを主神と崇める町々へ、羽毛で作った旗を奉納するだけのものだったとされる。祭りの期間は五日間で、酒と肉を好きなだけ食べるという平和なものだった。ククルカンの意向どうり、人身御供だけはけっして捧げられることはなかった。

 マヤ神話のククルカンは神でありながら同時に人間の偉大な王であったとも言われている(日本でいうと天皇のようなもの)。そして神話によると、平和と学問でマヤ族たちを納めていた善王トピルツィン(ククルカン)は魔神テスカトリポカを崇拝する軍人達のクーデターと、テスカトリポカの邪悪な魔法で玉座を追われ、国を追放されてしまう。トピルツィンはなんとかメキシコ湾岸までたどりついたが、これ以上逃げられないとわかると、部下の前で自分の体を羽毛で包み、炎の中に飛び込んでしまう。すると彼の魂は天に昇って金星となり、神々の一員として地上を見守るようになった。

 またトピルツィンは、蛇で造ったいかだに乗って必ず帰ってくることを近い、海の東の果てにあるといわれるトラパリャン(赤い土)と呼ばれる土地へ向かったといわれる。このトピルツィンとは西暦1000年前後に実在した王で、そして彼の伝説とアステカのケツァルコアトル伝説が交じり合って、トピルツィンの追放の物語ができたと言われている。


○スペイン人の侵略とケツァルコアトル

 ケツァルコアトルが必ず帰ってくると約束した「葦の一の年」の伝説は、アステカで長く信じられていた。そしてスペイン人がアステカの侵略を始めた1519年は偶然にも「葦の一の月」で、その上スペイン人はケツァルコアトルが人間の姿をとるときの特徴である白い肌と黒い髭を持っていて、さらにケツァルコアトルを示す十字記号すなわち十字架を掲げていた。アステカ人が、ケツァルコアトルが戻ってきたと思うのも当然の事で、抵抗せずスペイン人に征服された。以来、アステカの人々はケツァルコアトルの十字架ではなく、イエスの十字架を強制的に信じさせられるようになった。


○アステカの蛇神達

 ミシュコアトル(雲蛇)は総勢400人からなる大部隊の神々で、「400の雲蛇」の一員だった。これは銀河中央部の密集した星星を雲に例えたものだとされる。また、シウコアトル(トルコ石の蛇)は歴法に関係が深く、太陽神ウィツィロポチトリと戦ったことが記されている。他にも神殿などに残されたレリーフには、大地母神コアトリクエ(蛇のスカートをはく女神)が、頭の上で二匹の蛇が向かい合った、牙をむいた女神の顔をしているのを見ることができる。また、アステカ族の主食であるトウモロコシは、チコメコアトル(七匹の蛇)によって守られている。アステカの蛇神信仰は、後にジャガー崇拝の前に衰退してはくが、かなり長い間、深く行われていた。



(1)ジャガー

 南米に生息するネコ科に肉食動物。アステカ人にとっては大地を象徴する生物だった。その黒い斑点のある毛皮は夜空と同一視され、闇や地獄を表す生物ともされた。


(2)テスカトリポカ

 アステk神話の軍神で、その名は「煤けた鏡」という意味を持つ。牙をむき出しにした顔と、片足が煙を吐き出す鏡となった姿で現され、ジャガーを聖獣とし、ジャガーの姿を取ることもある。


(3)テスカトリポカの妨害

 テスカトリポカは火の雨を降らし、世界を洪水で覆い、ケツァルコアトルが造った人類を滅亡させている。しかし、死に耐えていこうとする人類が哀れになったケツァルコアトルは彼らを魔法で動物にして、テスカトリポカの殺戮から救い出してやる。この二神の争いを、アステカ族達は「聖戦」と呼び、現在の世界を作るために必要な儀式であったとしている。また、私達の前の時代に生きていた人類の生き残り、ケツァルコアトルに姿を変えられた人間が、現在の猿であるとされる。


(4)大きな木

 北欧神話の宇宙樹同様に、この樹も枝が天を、根が大地を支えている。


(5)地下の冥府

 アステカ族たちは、北方の地底にミクトラン(聖地の下)という名の死者の国が広がっていると信じていた。そこに落ちるのは、神々によって祝福されなかった死者で、彼らには四年間、冥界での過酷な旅を義務づけられていた。そして期限を過ぎると九つの川を渡り、九つの冥界に入ることでその魂は完全に消滅する。生きている人々はその四度の間、死者の為に食料を捧げ、犬を焼いて旅の無事を祈る。


(6)ミクトランテクゥトリ

 死者の魂を治めるミクトランという暗闇に包まれた国の王。彼は自分が手に入れたものを手放すのをとても嫌ったといわれる。彼に対する崇拝はほとんど行われなかった。


(7)地獄の犬

 アステカでは死の国と犬が深く結びついている。ケツァルコアトルと双子の兄弟神、ショロトルは犬の顔をした神だった。彼はケツァルコアトルとともに地獄を遍歴し、ついには死者の国のワナにかかって死んでしまう。


(8)キノコの幻覚剤

 現在でも、中米、南米ではある種のキノコから麻酔剤、鎮痛剤を作ることがある。


(9)トリラン・トラパラン

 「世界の果て」「ありえない場所」といった意味を含む。


(10)葦の一の年

 アステカの歴法で一年は、13日が20組から成るとされる。各組は、ワニ、風、家、トカゲ、蛇、死、小鹿、ウサギ、水、犬、猿、草、葦、ジャガー、ワシ、ハゲタカ、地震、火打ちの小刀、雨、花で表される。今日はジャガーの13日、明日はワシは一日というふうに数える。