カンヘル竜 Canhel

 キリスト教の聖書では、他の宗教を悪魔の誘惑と教え、徹底的に排除している。とはいえ現実はそう割り切れるものではなく、キリスト教も他の宗教とある程度妥協しなければならなかった。たとえば中米のアステカ族をスペイン人が征服した時などだが、スペイン人達はキリスト教に現地の民間伝承などを織り交ぜ、アステカ族がキリスト教に改宗しやすいようにした。そのため、キリスト教とアステカ族の宗教が交じり合って、聖書に記されたことがらとは微妙に異なる独特な伝承が生まれるようになった。

 このカンヘル竜もそのような経緯で生まれた。本来、風の精霊であるカンヘル竜の「カンヘル」とは、アステカ族が権威の象徴としていたドラゴン(蛇)の頭をかたどった杖を指している。この杖は、王や神官だけが持ち、偉大な力を表すとされた。スペイン人達は、キリスト教で神の威光を示す精霊(天使)を、この杖の名をとったカンヘル竜という名で表せば、アステカ人も容易に改宗すると考えた。

 世界の始まりは静寂に包まれた果てしない空間だった。光、水、大地などこれから作り出されるものは全て宙に浮かび、ふわふわと漂っていた。何も起こらないこの世界で意思を持っているのはエホヴァ、イエスそれにカンヘル竜だけだった。エホヴァは四匹のカンヘル竜に(1)四方に飛んでいくよう命じた。中米の文明は方位を色で示していたので、エホヴァもそれぞれ色で指定していた。すなわち、赤いカンヘル竜は西に、白いカンヘル竜は東に、黄色いカンヘル竜は南に、黒いカンヘル竜は北に飛んでいった。世界の果てにたどりついたカンヘル竜達は、そこに住み着き、初めて世界に方位が決められた。

 世界が誕生する前に、エホヴァはセルピヌスというカンヘル竜を作り出した。そしてセルピヌスは、エホヴァの手のひらに他のカンヘル竜達を集めて洗礼をほどこした。そのセルピヌスと清められたカンヘル竜達が力をあわせ、聖なる言葉で世界を創造した。こうして私達の世界が誕生した。



(1)四方

 アステカやマヤといった古代メキシコ人達は、世界は十文字になっていると考えた。そして十字の先端は、厳密に方位を示し、北(黒)には死の国、東(白)には天国、南(青)にはイバラと渇きの国が、西(赤)には女神の暮らす楽園があるとし、十字の中央には炎の神がいるとした。