ヴァジェト Vaget

 ヴァジェト(ギリシャでは「ブト」)は、古代エジプトの砂漠に棲む毒蛇コブラの女神。その姿は白い王冠をかぶった、または鎌首を持ち上げ威嚇の姿勢を取るコブラの首を持つ若い女性とされる。古代エジプトでは、猛毒を持つコブラは善と悪両方の本質を持っているとされた。つまり、その猛毒を正義の武器として自分を敵から守ることが善であり、逆にそれが自分にもたらされることは悪である。王者の額を守るウラエウスや、このヴァジェトなどはそんな善のコブラを象徴している。

 ヴァジェトはコブラの猛毒を持った女神で、その毒には悪魔や怪物を一撃で倒す威力があるとされる。彼女の毒に命を奪われるのは悪人だけで、善人の体は傷つかなかったと言われる。またその毒は、悪を焼き尽くすための燃え盛る炎に例えられたので「炎の女神」とも呼ばれた。エジプト人達は彼女の正義を守る毒に畏敬の念を感じていたため、神話の中ではあまり活躍していなかったがようだが、古代エジプトの主神(1)オシリスの母、娘、姉妹などと呼び、深く敬愛していた。

 ヴァジェトは、得にコブラが多く生息している下エジプト王国の首都ペル・ヴァジェト(蛇の宮殿)を中心に崇拝されていた。けれど下エジプト王国と対立する上エジプト王国では、コブラを食べる(2)ハゲワシの女神(3)ネクペトが崇拝されていた。(4)ヴァジェトとネクペトは、互いに対立し勢力を競っていた(この2人はコブラとハゲワシ、および上下エジプトの争いを象徴していた)。しかし後に二つの王国が統一されると、ヴァジェトとネクベトは協力してファラオ(エジプト王)を守護するようになる。歴代のファラオたちはヴァジェトとネクベトの称号を自分の名前の前に記すことで、初めて王権を獲得したと認められた。

 時代が下がるにつれて多くのコブラ女神が生まれ、彼女達もまた、ヴァジェトほどの勢力はないにしても崇拝されるようになった。例えば紀元前15〜17世紀のエジプト新王国時代に信じられはじめたレネヌクトもやはりコブラの神だった。彼女は農作物をネズミの被害から守ると考えられたので、穀倉地帯では広く崇拝されていた。その姿は頭の上に穀物の穂を乗せて進むコブラか、または穀物の女神である赤子のネプリを膝の上であやしている、蛇の頭を持つ女神の姿で現される。そして「豊かな土地の女神」、「穀物倉の女神」といった称号で呼ばれていた。



○ウラエウス(イアレト) Uraeusu,Iaret

 ウラエウス(エジプト語でイアレト)は、王冠や彫像の額で頸を大きく広げて攻撃の姿勢をとるコブラで、強大な王権や神の力を象徴する聖なる蛇を意味する。なぜ、猛毒を持ったコブラが王の額を飾るようになったのか、古代エジプトの伝説にその説明が記されている。

 かつて、大いなる太陽神(5)ラ−は、悪魔アポピスとの戦いで片目を失ったことがあった。そこで大気の神(6)シュウは、ラーおために失われた目を探してくるが、すでにラーは代わりの眼を見つけていた。自分の善意が無駄になったことを知って落胆したシュウを喜ばせるため、ラーは彼が探してきてくれた片目をコブラに変え、自分の額に取り付けた。それ以来、ラーの額には第三の眼ともいえるコブラ、ウラエウスが飾られるようになった。後に、ウラエウスはラーだけでなく多くの神々や王の額にもつけられ、偉大な力を象徴するものとされるようになっていった。コブラは砂漠の過酷な環境を生きぬき、自分の何倍もある動物をひと噛みで殺せるほどの猛毒を持った生物として、恐怖と尊敬の両方の目で見られていた。



(1)オシリス Osiris

 古代エジプトの主神。ナイル河と同一視されることもあった。植生、豊穣、水、葬祭、太陽、農耕、裁判、冥界などを司り、人々に技術や文化を与えたとされる。死から復活したことで死者の王とされ、白い羽毛の冠をかぶり、主権、統一権を意味する牧杖、穀竿を持った緑色に塗られたミイラの姿で現される。「オシリス」はギリシャの呼び方で、エジプトではアス・アル(眼の威力)、ウン・ネフェル(美しきもの)と呼ばれた。


(2)ハゲワシ

エジプトでは受胎の象徴とされた。


(3)ネクペト

 ネクペトも同様に、受胎、つまり繁殖や豊穣を司る女神だった。ハゲワシが死者に群がることから、死霊の保護者とも言われる。彼女は白い冠(南エジプトでの神の象徴。北部は赤い冠をかぶる)をかぶり、翼を広げたハゲワシの姿で現される。


(4)ヴァジェトとネクペト

 ヴァジェトのほうが力を持っていたようだ。王によっては、ネクペトから与えられる称号を拒否して、蛇王(ヴァジェトの加護を受けた王)を名乗ったことを示す碑文などが見つかっている。


(5)ラー Re

 古代エジプトの太陽神で、広く崇拝されていた。頭上に太陽を載せた、鷹の頭を持つ若い婦人の姿で現されていたが、後にエジプト王と同一視される。エジプトの神々は皆、ラー(エジプト王)の権化とされ、王権の拡大に利用された。


(6)シュウ  Sw

 古代エジプトの空間、大気を司る神で、妻テフヌートとの間に大地が生まれる。聖獣は獅子で、天空を両手で支える、羽毛の冠をかぶった婦人の姿で表される。