ヴリトラ Vrtra
ヴリトラは古代インドの叙事詩『(1)リグ・ヴェーダ』に登場する魔物で、漆黒の肌、黄色い眼、白い牙を持った巨人ともドラゴンとも言われている。彼は、神々への復讐を考えていた造物主カシュヤパ聖仙、あるいは英雄(2)インドラと険悪な関係にあった技巧と工芸の神(3)トヴァシュトリによって作り出されたといわれている。憎しみによって生み出されたヴリトラは、全ての生物を憎むことしか知らなかった。そして大地を割り、月や太陽を追いまわし、大海を飲み干すこともできた彼を神々でさえ止められなかった。
ヴリトラという単語は「障害」「遮蔽物」という意味で、神々は与えてくれる恩恵から地上を覆い隠すという意味を持つ。その名の通り彼は水をせきとめ、旱魃や嵐を呼び、植物や動物の成長を遅らせる停滞の力だった。そのため、彼は全ての生物が苦しむ冬を象徴していると考えられ、「冬の巨人(アヒ)」とも呼ばれた。このアヒの名には「蛇」という意味もあることから、大蛇(ドラゴン)として描かれる事もあった。蛇はコブラのような小さな体で象を殺すこともできるため、インドでは地上における力の象徴とされていた。
ヴリトラは、この世に生まれ落ちるとともに神々に戦いを挑む。世界は旱魃に襲われ、人々は神々への供物にも事欠くようになってしまう。神々は世界の荒廃に困惑するが、ヴリトラの激しい力を恐れて和平を申し込む。しかしヴリトラは神々の英雄インドラが自分にひざまずくまでは世界を元通りにはしないと言う。誇り高いインドラは要求を飲むわけにはいかないが、ヴリトラは神々を超えた魔物なのでインドラも闘えば負けるだろう。そこで、インドラは自分の地位と名誉を守るため、もし憎しみを捨ててくれるなら、インドラの持つ所有地の半分を明け渡すことを条件に自ら和平を申し込んだ。
ヴリトラはついにインドラが自分に頭を下げてきたので、条件を飲んだ。そしてインドラの宮殿に招かれた彼は最高のもてなしを受け、神々はヴリトラの力を褒め称え、インドラはヴリトラと兄弟の契りを交わした。インドラは何気なさを装ってヴリトラと親密な関係を結んでいたが、実はこっそりと計略を張り巡らせていた。インドラは乳海攪拌で生まれたもっとも美しい女神(4)ラムパーをヴリトラの前につれていき、もし気に入ったならこの女神をさしあげましょうと言った。ヴリトラは彼女の望みを全てかなえることを条件に、ラムパーに結婚を承知させ、美しい森で新婚生活を送った。
あるとき、ラムパーは(5)スラー酒をヴリトラに勧めた。ヴリトラの(6)戒律ではスラー酒を飲む事は禁じられているが、妻の望みをかなえるために彼は酒を飲み干した。ヴリトラはスラー酒の強さに倒れてしまった。彼が動かなくなったのを見届けると、ラムパーは森の外へ合図を送り、(7)ヴァジュラを持ったヴリトラが現れ、ヴリトラを打ち殺してしまった。全てはインドラの罠だった。インドラは自分の領地を取り戻し、ヴリトラハン(ヴリトラを殺す者)の称号を与えられる。憎しみで生まれ育ったヴリトラが初めて友情と愛を信じたため、結局それに裏切られて殺された。
(1)リグ・ヴェーダ Rg-veda
紀元前13世紀の末に、インドへ侵入したインド・アーリア人が紀元前1000年ごろまでに成立させた宗教書。リグは「賛歌」、ヴェーダは「知識」を意味する。様々な神々に捧げた千を超える賛歌が収められているため、一般にバラモン教の聖典とされる。
(2)インドラ Indra
インド神話の最高神で、悪魔を殺害し、アーリア人を保護する英雄神、武勇神、軍神でもある。天空と雷を司り、頭髪、髭、肌が茶褐色で、手には最強の武器ヴァジュラ(金剛杵)を持ち、戦車に乗って空をかけまわるとされた。寛大な性格と暴君的な性格が混在し、仏教では帝釈天として、古代イランでは悪魔として恐れられた。
(3)トヴァシュトリ Tvastr
インド神話の技術・技巧の神で、工芸品全般を司っていた。『リグ・ヴェーダ』には、彼に対する独立した賛歌は無いが、彼の様々な発明を生み出す能力には敬意が払われている。
(4)ラムバー
乳海攪拌の際に生まれたアプサラス(水の精霊/半神)でもっとも美しいとされる。しかしその美しさのせいか神々の策略にはよく利用されたり、魔物にさらわれたりとさんざんな眼にあっている。
(5)スラー酒
「興奮させる水」の意味で、乳海攪拌の際に生まれた女神スラーデーヴィーによって支配されている。この酒は、適正に飲めば神々の飲み物ソーマ酒に匹敵する功徳があるが、誤って飲むと迷いを呼ぶとされる。
(6)ヴリトラの戒律
スラー酒は、罪ある者、ブラーフマナ、クシャトリア、ヴァイシャの各族が飲んではいけないことになっていた。彼らにとっては劇薬として作用するからだ。
(7)ヴァジュラ Vajra
インドラ神の武器で、金剛杵、雷とも呼ばれる。技巧神トヴァシュトリの発明で、多くの悪魔を殺害するのに役立ったと言われるが、定期的に研ぐ必要があった。